新田太郎 戦後ニッポン「ものづくり」流行史
 
第11回
「健康」という商品 ヨーグルトとミキサー
1 昭和26年の“Look Younger, Live Longer”
 1951年(昭和26)、東京の雄鶏社から、平野ふみ子の翻訳によって『若く見え長生きするには−アメリカ式健康法−』という本が出版された。“Look Younger, Live Longer”という原題のこの本は、アメリカ人の栄養学者兼作家、ゲイロード・ハウザー(Gaylord Hauser1895−1984)が1950年に著したものである。
 ハウザーは1895年にドイツのチューリンゲンで生まれ、16歳でアメリカに渡ったが、当時不治の病とされていた結核性の腰痛をわずらい生家に戻り、そこで新鮮な食物を摂る方法によって病状を改善させ、これをきっかけに健康法に興味を持った。彼は、ナチュロパシー(自然療法)とナプラパシー(脊椎指圧療法の一種)により病気を克服させ、自らもシカゴでナプラパシーを学び同地で治療院を開業したのである。その後、独自の健康法を開発し、ハリウッドの映画俳優の支持を受け、著作、講演、テレビやラジオの出演、健康食品会社の経営で身を立て、ハリウッドの伝説的な女優であるグレタ・ガルボの支持とも親交があったことでその名が知られている。
 ハウザー最初の著作である“Look Younger, Live Longer”は、本国で大ヒットし、世界37カ国語に翻訳される大ベストセラーとなった。
 その内容は、健康、美容、生活方法にわたるが、なかでも、
 (1) 醸造イースト(ビール酵母)
 (2) 脱脂粉乳(スキムミルク)
 (3) ヨーグルト
 (4) 小麦胚芽
 (5) 粗製糖蜜(黒糖蜜)
を、「驚異食品」と名づけ、これらの食品の「どれでも1つを毎日用いれば多分あなたの寿命は、さらに5年はのびる」と説いた。特に生野菜のなかにある「生きている物質」が、病気を治すエネルギーをもっており、それを効率的に摂取するためには野菜ジュースを1日1パイント飲むことが、「病気と早老の最も良い予防法の一つ」と説いたことが特徴的である。
 この驚異食品と野菜ジュースを主とする健康食は、わが国では「ハウザー食」といわれ、関心の的になった。
2 「健康」をめぐる流行
2−1「健康」をつくる道具〜ミキサーの急速な普及〜
 ハウザーは、『若く見え長く生きる方法』に「新鮮な野菜ジュースの作り方」という項目を設けている。そこには、
「もしあなたが、若返り長生き計画を、本気でなさろうというのなら、電気ミキサーを一つ、お求めなさい。これは、家庭全体のためになる、よい投資です。私が、野菜ジュースをのむことをとなえてから、いくつか、よいものが市場にでてきました。私が、今もつかって、世界中を持ち歩いているのは、数分間に、何ガロンというジュースができます。」
とある。
 わが国では1948年(昭和23)ごろ登場したといわれる調理用ミキサーは、当初、ほとんど普及していなかったが、この本が登場すると、1952年7月に東京芝浦電気株式会社(現・東芝)がMX-1型を、54年8月に三洋電機株式会社がSM-30型を、55年初頭に株式会社日立製作所が「日立スーパーミキサー」を発売するなど、家庭電機製品メーカー各社が軒並み生産を本格化させた。
 アメリカから来た翻訳本の流行がきっかけとなり、家電製品の1ジャンルが流行するという現象は、来るべき消費ブームの先駆けと位置づけることができるだろう。
 
1952年に当時の風潮を敏感に察知して発売されたMX-1型(東芝)
 
1955年ぐらいに、ほぼ同時期に発売されたMX-2型(左)、MX-3型(中央)、MX-4型(右)。こぼれないパッキング付の蓋や注ぎ口など改良点も多い(東芝)
 
50年代後半にさらに改良を加えられたMX-5型(左)とMX-6型(右)。「お台所の」あるいは「食卓のマスコット」が共通のキャッチ。この後、7型、8型も発売された(東芝)
2−2「健康」をもたらす食品〜ヨーグルトの普及〜
 そしてもう一つ、この本の流行と歩調をあわせるように普及した食品に、ヨーグルトを挙げることができる。
 わが国におけるヨーグルト製造の歴史は、古くは奈良時代から明治20年代に発売された整腸剤である「擬乳」を経て、1915(大正4)年に広島合資ミルク会社(現・チチヤス株式会社)による継続的生産に至っていた。
チチヤス株式会社ホームページ http://www.chichiyasu.com/hystory01.html
 しかし、コールドチェーンが未発達であった当時、ヨーグルトを食べられる層は非常に限られた層であり、一般に流通したのは、1919(大正8)年に発売されたカルピスに見られるような、常温で保存ができる乳酸菌飲料であった。
 このヨーグルトを工業的に生産した事例の早いものとして、1950年(昭和25)9月に明治乳業株式会社から発売された「ハネーヨーグルト」がある。その名のとおり、天然ハチミツを配合したヨーグルトは、同社の両国工場で生産、販売され、牛乳の戸別配達ルートに乗り人気を博した。その後市場に参入した森永乳業株式会社は、56年に6種類の果物を使用したフルーツヨーグルトを発売、従来製品と交互に配達する方法で消費者の需要を喚起した。
 この時期におけるヨーグルトの宣伝に、
「より若く より健康に・・・ 食べて美しくなる」(明治乳業 ハネーヨーグルト)
「元気に 若く 美しく」(社団法人日本ヨーグルト協会 ヨーグルト普及のために61年3月15日に設立)
という言葉が踊っていることから、ハウザーの『若く見え長生きするには』が、ヨーグルト普及に深く関連していたことを察することができる。
 
1915年に発売された日本で初めてのヨーグルト(チチヤス)。ガラスビンに入れられ、19銭で販売されていた(当時、米1升が50銭前後) チチヤスヨーグルト(1966年/チチヤス)
運搬途中で割れやすかったガラスビンから、1966年、プラスチックパッケージを採用。これは食品では初めて認可されたプラスチック容器でもある
 
ハネーヨーグルト(1950年/明治乳業)
当時の和製ヨーグルトは、発酵させたものに甘味料と香料を加え、寒天やゼラチンで固めたものがほとんどだった。これは日本独特の「ハードヨーグルト」と呼ばれているもので、容器は小型のガラスびん(90〜100ml)だった
3 1950年代のアメリカと1970年代のニッポン
 1961年(昭和36)に日立製作所が発行した『家庭電器ハンドブック』には、「ミキサー」の節があり、その歴史が触れられている。そこには、ハウザーの著書中、本稿で先に引用した部分がミキサー流行の契機となったことが記されており、続いて、
「ハウザー食はミキサーを知らせるために大いに貢献したわけです。しかしハウザー博士の提唱したハウザー食をつくるための道具として推奨されたものだっただけに、やがて人気は下火になりました。これは、カロリー過剰の食生活に頭を悩ましているアメリカなどとはちがって、日本人は一般にカロリーが不足がちで、ハウザー食を受け入れ(原文のまま)られるのはごくかぎられた層にすぎなかったからでしょう。そしてハウザー食を必要としない人は、ミキサーにも無関心という結果になってしまったのでした。」
とある。やや長めに引用したが、この文章から、51年からの流行は、定着することがなく、10年後には「歴史」とされていたことがわかる。
 引用文中にあるように、当時の日本の食料事情は、米不足を解消するための粉食奨励策がしかれ、学校給食の現場ではユニセフによる脱脂粉乳の援助を受けている最中で、ララ(公認アジア救済連盟)物資の配給がようやく終わろうとしている頃だった。国民のカロリー摂取量を上げることに関心のあった当時の状況にあって、食事による健康法ははるか先のことだったのだろう。
 ハウザー食が普及に至らなかったことは、普及し始めのヨーグルトの製法から見ても明らかである。ハウザーが摂取を提唱したヨーグルトは、自宅でヨーグルト菌と脱脂粉乳を配合して造るヨーグルト、つまりナチュラルヨーグルトの一種であったが、この頃わが国に普及したヨーグルトは、ゼラチン質と糖を加えた製法で作られる、ハードヨーグルトといわれるものであった。はじめから甘い味付けがなされていたこのヨーグルトは、ヨーグルトの素というより、単体で食されることを想定した、菓子類に近いものであった。わが国におけるナチュラルヨーグルトの普及は、71年の明治乳業による「プレーンヨーグルト」の登場を待たなければならなかった。
 『若く見え長生きするには』は、その後60年代後半、杉靖三郎の再訳で刊行され、70年に京都のハウザー食品工業株式会社がハウザーとの間で業務提携を行なっている(ハウザー食品株式会社公式ホームページより http://hauser-foods.co.jp )。どうやら50年代初頭にアメリカ一般国民の間で流行した健康食は、わが国において、70年代初頭に現実的なものになったようだ。
 ちなみに、ハウザーの書名に関連した商品としては、1950年前後に日清製粉が小麦胚芽を「リブロン」(“Live Longer”の発音を短縮したもの)という商品名で発売しており、同製品は日清ファルマ株式会社より「リブロン」シリーズとして現在も発売中である。同シリーズには“Look Younger”を由来とする「ルクヤン キューテンドリンク」という商品も展開されている。
 ハウザーのこの本は、食料から簡単に得ることのできない栄養分を補い、食生活のバランスを整えるという現在のライフスタイルを招来したものとして意義深い。「ルックヤンガー、リブロンガー」というメッセージは、国際的に支持される価値観となり、その考え方は、その後のサプリメント文化に連なっている。
 
明治プレーンヨーグルト(1971年/明治乳業)
日本初の本格的プレーンヨーグルト(左)。当初は、ヨーグルトの本場であるブルガリアを冠する予定だったが、同国の許可が得られなかった。1973年よりその実力が認められ、晴れて「ブルガリアヨーグルト」(右)となる
 
4 食糧不足、学校給食、そして肥満の悩みへ
 ともあれ1950年代における『若く見え長生きするには』という本の流行は、日本人の健康に関する認識に少なからず影響を与えたようである。それまでにも体力維持を増進して国家に奉仕するという意味での保健衛生という概念が鼓舞されたことがあった。それを個人の健康と美という幸福追求に変化させる役割の一端を、この本は担った。こうした変化は、日本人に栄養バランスという考え方を植え付け、その結果、世界最長の平均寿命を誇る国民への変化につながっている。
 また、この本により普及したミキサーの例にみる、家庭電化による生活合理化は、家事労働を軽減化させ、女性の余暇時間を増加させるとともに、消費型社会への転換を促し、高度経済成長の原動力となった。
 そして「驚異食品」をはじめとする、さまざまな洋風食材の導入――無論その背景には、第二次世界大戦終戦直後の食糧不足解消のための粉食奨励政策や学校給食の導入、そして栄養強化運動などの普及活動が欠かせない、は、国際的にみて、非常に柔軟で間口の広い日本の食文化形成の基盤となった。
 しかしながら、栄養バランスを得るために導入された油分、糖分の上昇と、米を中心とする炭水化物の摂取率の下降は、肥満という新たな悩みを国民に植え付けるとともに、水田を減少させ、農村の過疎化をまねき、国土の保水力を衰えさせている。その後アメリカは栄養過多な食文化を反省して日本食に注目し、近年ではプリオン問題などとも絡んで、ヨーロッパやアジアにも、魚食を中心とする日本食が普及してきている。
 またジュースを作る道具として普及したミキサーは、機能が限定されるわりに場所をとる品物として、電気ゆで卵器や電気フライパンなどと共に、しばしば台所の邪魔者になり、長らく電気製品普及のネガティブな側面の代表選手となってしまった。攪拌、粉砕、混合、製汁、液化といった本来の機能が受け容れられるようになるには、1977年のフードプロセッサー登場からかなり先まで待たなければならなかったようである。
 そして洋風食材の導入では、しばしばわが国独自に、食材本来の効能と異なる解釈がみられた。初期のヨーグルトが加糖されたハードヨーグルトであったことは先述したが、61年に登場した駄菓子であるサンヨー製菓株式会社の「ヨーグル」は、ショートニングと砂糖と香料が主原料で乳酸菌は含まれていないのに、ヨーグルトのイメージしたものとして今も親しまれている。このロングセラー商品は、ヨーグルトという食材が、甘く酸っぱい食べ物として、独自に解釈されてきたことを示しており、わが国における外国食品の解釈の仕方を象徴したものといえるだろう。
 ものづくりの流行は、時としてもの本来の機能や性質を限定させることもある。しかし、それによって、思わぬ価値が生まれる機会にもなりうるのだろう。
 
モロッコフルーツヨーグル(1961年/サンヨー製菓)
給食に出てくるヨーグルトのビンを模した容器と甘酸っぱい味が愛され続けるロングセラー。左は発売当時のカートン表紙。製品名はアフリカのモロッコでヨーグルトがよく飲まれていることから由来するそうである。アフリカつながりでマスコットは象。現行商品(画像下)にも受け継がれている
 
文献
・ゲイロード・ハウザー 平野ふみ子訳『若く見え長生きするには−アメリカ式健康法−』雄鶏社 1951年(原著1950年)
・マーティン・ガードナー 市場泰男訳「食物のあぶく流行 断食からハウザー食まで」(『奇妙な論理T−だまされやすさの研究−』所収)早川書房2003年(原著1957年)
・東京芝浦電気株式会社総合企画部社史編纂室/編纂 『東京芝浦電気八十五年史』東京芝浦電気 1963年
・三洋電機株式会社/編 『三洋電機三十年のあゆみ』三洋電機株式会社 1980年
・日立製作所臨時五十周年事業部社史編纂部/編『日立製作所年史2』日立製作所 1960年
・日立製作所『家庭電器ハンドブック 寄贈製品の解説』株式会社日立製作所 1961年
・明治乳業社史編集委員会『明治乳業50年史』明治乳業株式会社 1969年
・森永乳業50年史編纂委員会『森永乳業50年史』森永乳業株式会社 1967年