新田太郎 戦後ニッポン「ものづくり」流行史
 
第7回
ハーフサイズカメラ
ニッポンの写真文化を一気に拡げた小さな巨人
ハーフサイズカメラの登場
 ハーフサイズカメラは、35mm(ミリメートル)ロールフィルムを使用した35mmカメラの一種で、この種のカメラが1コマあたり縦24mm、横36mmを使用するのに対し、横幅を18mm使用し、フィルムの感光数を倍にしたカメラである。1959年(昭和34)の10月に発売された、オリンパス・ペン以来、一時期大流行した。流行の原因は、カメラ本体が低価格であったこと、小型、軽量であったこと、操作が簡単であったこと、そしてなによりランニングコストが低かったことが挙げられる。このタイプの出現により、日常的に写真を楽しむ層が一挙に拡大したといわれる。
 ハーフサイズカメラの発想は、1912年、アメリカのツーリストマルチプルを嚆矢として、ドイツのコレレKなどが知られるが、当時のフィルムの性能では引き伸ばしに耐える画像を露光させることが難しかったため、一般の普及を見なかった。第二次世界大戦後にはアメリカからマーキュリーが出たが、ボディーが大きかったためかこちらも普及しなかった。
 しかし、1950年代に入るとフィルムの性能もあがり、ハーフサイズの経済性が見直されて、59年の4月には、付属のハーフサイズ用マスクをつけるとフィルム送りが調節され、ハーフサイズになる兼用型のコニカIIIMが発売。ハーフサイズが撮影できるカメラで商品化された製品としては、こちらが日本初といえる。
 同年同月には、マミヤから24mm×24mmのマミヤ・スケッチも出た。こちらは、通常のフィルムよりも1.5倍の撮影コマ数が撮れるという経済性とともに、商品名からもわかるように、軽便さを全面に押し出した製品であった。
 そして59年の10月、ハーフサイズ専用機としては国内初のオリンパス・ペンが登場した。おりしも団塊世代は10代前半で、当時としては破格の6000円という安さ、350g(グラム)という軽さ、10.8×70×40mmという小ささ、感光部が小さいため焦点距離が短くとれ被写界深度が得やすくピンボケがしにくいという簡単さが受け、ヒット商品となった。このカメラを開発したのは、同社の設計部門に配属されて間もない米谷美久で、新人研修の課題でこのカメラのコンセプトを立案、設計し、試作品が商品化されたというものであった。
 その後、各メーカーはこぞってハーフサイズ専用機を開発した。61年に出たヤシカのラピードはフィルム送りを上下にした縦型のスタイルで、縦長になってしまうというハーフサイズの欠点を解消した。62年にはリコーがスプリング式の巻き取り装置を内蔵したオートハーフを出し、キヤノンからは63年に巻き上げ式のレバーと連動式露出計を備えたデミが発売された。いずれも各社の個性が発揮されており、当時のこの市場のにぎやかさが感じられる。
 先駆者であるオリンパスは、60年にペンS、61年に自動露出のペンEE、62年にはプログラム式シャッターを内蔵したペンEES、63年の6月にF1.9の明るいレンズのペンD、同年9月には、ハーフサイズ専用機で唯一のレンズ交換式一眼レフ、ペンFを発売し、その後もさまざまな種類を展開した。
 一方、コニカは65年にフルサイズとハーフサイズの切り替え機能を搭載した一眼レフ、コニカオートレックスを発売した。
オリンパスペン。ハーフサイズというフォーマットを確立した 続くペンの後続。誰でも上手に写真が撮れるペンEE
ペンEES。プログラムEE(Electoric Eye)シャッターを搭載 ペンD。大口径レンズ搭載で最高級のプロ仕様を目指した
マミヤ スケッチ。通常のフィルムを経済的に使うという点では、ペンの先駆といえる リコー オートハーフ。ユニークなデザインの自動巻き上げ式カメラ
キヤノン デミ。後に様々なカラーバリエーション「カラーデミ」も登場 コニカ オートレックス。世界初の自動露光(AE)方式も話題になった一眼レフ
小型軽量、簡単操作のカメラとして
 しかし、わが国におけるカメラ生産の発展の歴史からみると、ハーフサイズカメラはその一角に過ぎない。
 描写性の追求に関しては、1925年(大正14)発売のライカを追いかける形で、35mmフルサイズ判のレンズシャッターカメラが作られ国産メーカーが出揃っていき、戦後の一眼レフカメラの生産競争によって、国際的地位を不動のものにしていったという流れがあった。一方、実用性の追求に関しては、戦前から続く二眼レフが、戦後間もない50年代前半に安価な製品を出して大流行するという流れがある。ハーフサイズカメラは後者に属する。そしてハーフサイズ登場後は、小型・軽量化といった携行性の追及をハーフが担い、露出の自動化(EE化)など撮影の簡便性を、フルサイズの大衆カメラが担うという棲み分けがなされた。つまり、高級製品としての一眼レフ、実用品としてのEEカメラ、コンパクトさが売りのハーフサイズという市場が構成されたわけだ。
 しかしこの流れも、技術革新によって変化を余儀なくされる。1967年(昭和42)に登場したローライ35は、35mmフルサイズの仕様でありながら、ハーフ判カメラよりもコンパクトであった。これを受け、ハーフ判の雄であるオリンパスもペンEESをベースにしたフルサイズ判カメラのトリップ35を68年に発売、他のメーカーもコンパクトカメラの規格をフルサイズにシフトしていく。また、72年にはコダックから110規格のポケットインスタマチックカメラ(ポケットカメラ)が登場。63年登場のインスタマチックは日本国内で不振に終わったが、こちらはホビーカメラを中心に普及し、カメラ市場の裾野を広げた。
 ハーフサイズカメラの不遇は、フィルムの変化にも原因があった。一般ユーザーが使用するフィルムが白黒からネガカラーへと変化した70年代初頭のネガカラーは粒子が粗く、ハーフサイズでは大伸ばしに耐えられず、また、カラープリント代も高価であったため、フィルム1本あたりのコマ数が多く取れるハーフサイズのメリットが、高コストという形で逆に作用してしまうという問題が起きてしまった。
 ハーフサイズカメラは、このようにして存在感を弱めていったが、84年にはフィルム縦送り(上下にフィルムが送られる)のコニカ・レコーダーが発売され、85年にはフジ・ツイングが出て、再度注目を浴びた。そして87年には3倍ズームレンズを搭載した全自動一眼レフのサムライが京セラから発売される。坂本龍一をイメージキャラクターにしたCMで、縦長のユニークなスタイルとともに話題をさらった。それは、まるで前身のヤシカが61、62年に発売したラピードやセクエルに先祖がえりしたようであった。しかし、このサムライを最後に、ハーフサイズカメラが一般ユーザーにまで注目されることはなかった。
オリンパス トリップ35。小旅行(=トリップ)に持っていける手軽さが人気に コニカ レコーダー。当時、世界で最も薄いカメラとしても話題になった
京セラ サムライ。ホールドした手に奇妙なフィット感がある。写真協力:みのかん(涌井 実) ヤシカ ラピード。ストラップを引っ張るとフィルムが巻き上がる。写真協力:Saitolab(齋藤 晃)
ヤシカ セクエル。やはり縦長で、専用のグリップも取り付けられる。写真協力:Saitolab(齋藤 晃)
縦長のファインダー越しに見えるもの
 ピントを合わせ、絞りとシャッタースピード、フィルム感度の関係を確かめ、それぞれの数字にダイヤルを合わせる操作が必要なそれまでのカメラから、シャッターボタン一つで簡単に写真が取れるハーフサイズカメラは、まさに誰にでも扱えるカメラであった。私事で恐縮だが、筆者の子ども時代のアルバムを見ると、父親の一眼レフで撮影されたカラーの幼少時の自分は、たいてい直立不動、視線はまっすぐレンズに向けられているが、姉のリコーオートハーフに向けられた白黒の自分は、笑顔や泣きっ面を縦、横、斜めの画面に見せている。同様の記憶を持つ方も多いのではないだろうか。ハーフサイズカメラは、カメラを特別な機会を記録する装置から、日常の記憶をとどめる道具へと変化させる役割を果たしたといえるだろう。
 ハーフサイズカメラは、歴史の表舞台からは姿を消したが、その中で培われた技術には、現在にも通用するものもあるようだ。2004年(平成16)の11月に発売されたレンズ交換式デジタル一眼レフであるオリンパスE-300には、ペンタプリズムを使用しない、サイドスウィングミラー方式を採用し、ボディーの全高を押さえる努力がなされたが、この方式は同社のペンFに搭載されたポロプリズム系とよばれるファインダー形式とよく似ている。偶然なのかもしれないが、41年前の技術がはからずして復活したような感がある。
 積み重ねられていく日常のなかで、記憶の底に埋没してしまう過去の日常を振り返って見ることにより、もしかして未来に通じる発想や技術が見つかるのかもしれない。
 
オリンパスE-300.デジタルカメラ時代になっても、そのボディの中にハーフサイズカメラの遺伝子が息づいている オリンパス ペンF。左半分のスペースに複雑に構成されたプリズムとミラーを収納、一眼レフを実現した