柏木博 NSデザイン・ミュージアム
 
第7回
テレビのデザイン(1)
「網膜拡張装置」としてのテレ・ヴィジョン
ブラウン管の開発
 テレビ受像機のモニタ部分は、現在、液晶やプラズマなどが使われるようになってきているが、ほんの数年前までは、いわゆる「ブラウン管」がほとんどであった。液晶やプラズマになっても、画像を走査によって分解し再現する装置という点では「ブラウン管」とかわらない。
 ブラウン管の原型となるものは1897年にドイツの物理学者K・F・ブラウン(1850-1918)によって発明された。よく知られているように、日本でも高柳健次郎が1926年(大正15年)に機械走査型のブラウン管の実験を成功させている。結局、実用化されたのは、1930年代にアメリカのV・K・ツヴォリキン(1889-1982)が成功させた電気的走査型の「アイコノスコープ」である。高柳も1935年にアイコノスコープの実現に成功している。ヒトラー政権下の1936年のベルリン・オリンピックの時に、テレビの実験放送が行われている。こうした画像受像器の研究は第二次大戦でレーダーに応用された。
 1937年には、イギリスではテレビ放送の標準走査線数を405本とした。さらに1941年には525本方式がアメリカで実現された。525本方式は、その後のテレビ放送の標準として、ながく使われることとなった。
 1945年に、アメリカのA・ローズたちが「イメージオルシコン管」を開発した。これはかつてのアイコノスコープよりもはるかに機能性が高かった。また、1950年にはやはりアメリカのP.K.ワイマーたちによって「ビジコン管」が開発された。これは、映画フィルムを映像信号に変換するテレシネカメラに利用され、テレビ放送を本格化させることになる。日本ではイメージオルシコン管とビジコン管を使って1953年(昭和28年)にテレビ放送が開始されることとなった。
テレ(遠隔)・ヴィション(視覚)・システム
 テレビのイメージは、その初期の段階において、まさにテレ・ヴィジョンのイメージを持っていた。わたしたちは、遠方にあるものを手元で体験することに対する欲望を強く持っているようだ。つまり、遠隔操作(テレ)に対する夢を抱いてきたのである。その結果、テレ・スコープ(視界)=望遠鏡、テレ・フォン(声)=電話などを開発してきた。これらの中ではもっとも早く登場したテレ・スコープは、16世紀から17世紀にかけて活動したガリレオ・ガリレイのものがよく知られている。
 テレビ発明への夢は、20世紀の早い時期からあった。そのことを両大戦間時代のSF映画の中に見ることができる。たとえば、フランスのマルセル・レルビエ(1888-1979)が監督した『イニューメン(人でなしの女)』(1924)や、フリッツ・ラング監督(1890-1976)のロボット映画の名作『メトロポリス』(1926)には、テレビ受像器が出現する。
 前者では、若く美しい科学者が実験室から、ヒロインのオペラ歌手が歌う姿を世界中に放送するシーンがある。もちろん、この装置は想像上の装置なので、つじつまの合わないところがある。実験室から放送すると、その放送を見ながら歌声に聞き入る聴衆の姿が、実験室に設置されているブラウン管に映し出される。テレビカメラを使っているわけではないので、ブラウン管受像器が送信機にもなっているという双方向型のメディアである。そこで想像されている装置はまさに、テレ=遠隔操作・ヴィジョン=視覚、装置である。科学者が、この装置は時間を越えて移動するシステムであることを説明している。まるでエーテル状の空間を身体が瞬時に移動してしまうような不思議さがそこに描かれている。
マルセル・レルビエ監督『人でなしの女』の科学者の研究所のシーン
Donald Albrecht, “Designing Dreams”, Thames and Hudson, 1987より
 また、後者の『メトロポリス』では、ふたつの都市の抗争が描かれる。地下世界に重労働を強いられている奴隷のような労働者の都市があり、地上にはそれを支配する権力者たちが生活する都市がある。その権力者のオフィスには、テレビ・モニタがあり、都市のあちらこちらをモニタできる。つまり、テレビが一望監視システムになっているのである。
フリッツ・ラング監督『メトロポリス』の地上都市のシーン
Donald Albrecht, “Designing Dreams”, Thames and Hudson, 1987より
 テレ・ヴィジョンはわたしたちが生身の網膜で捉えることのできない遠隔の対象を捉えるものだという発想が、これらの映画の中では素朴な形で描かれており、まさにテレビ本来の性質が表現されている。
 たしかに、テレビ(ブラウン管)は、わたしたちの網膜の代用になると同時に、それを拡張する道具として開発されたのだといえる。現在、慣れ親しんだテレビを、人工的に拡張された網膜として考えてみると、あらためてテレビに映し出される事件や娯楽の映像が再び不思議なものに思えてくる。
ハイテック・スタイルのフィルコ
 最初期のテレビのデザインには、画像を下からプロジェクションし、鏡に映すといった、大きなキャビネット・タイプのものもある。しかし、アメリカでは放送が一般化した1950年代には、比較的小型化されたキャビネット・タイプのテレビが普及する。キャビネットの上部にブラウン管を入れ、下にスピーカーを内蔵するというレイアウトが一般的であった。壁に組み込み式のテレビもみられるが、この場合もキャビネット・タイプのテレビを埋め込んだ形になっている。
1950年代アメリカの壁組み込み式テレビ
Thomas Hine, “Populuxe”, A.Knopf, 1986 より
 このキャビネット型のデザインは、キャビネット・タイプのレコード・プレイヤーのデザインを原型にしている。テレビもラジオと同様、それまでの歴史に存在しない装置であり、したがって、固有のデザインをにわかに生み出せず、それに先行する装置のデザインをモデルにしたと考えていいだろう。
1950年代アメリカのキャビネット・タイプのテレビ
Thomas Hine, “Populuxe”, A.Knopf, 1986 より
 そうした中で、1958年にアメリカで発表されたテレビ受像器「フィルコ・プレディクタ」は画期的なデザインだった。以前からフィルコ社は、デザインに対して意識的な企業であったように思える。というのも、1930年代に同社から出されたラジオは、ノーマン・ベル・ゲディーズ(1893-1958)に依頼したデザインだったからである。
 ゲディーズは、日本でもよく知られるレイモンド・ローウィ(1893-1986)らと同じ、アメリカの第一世代のインダストリアル・デザイナーであった。1939年のニューヨーク博で、彼がデザインしたGM(ゼネラル・モーターズ)パビリオンでの展示『フューチュラマ』は、当時、もっとも人気を博した。また、オーシャン・ライナーやエア・クラフトなのデザインは、どれもSF的であった。実際に実現はしなかったが、人々を圧倒するに充分であった。ちなみに、ウイリアム・ギブスンのSF小説『ガーンズバック連続体』には、ゲディーズのデザインしたトランスポーテーションが、白日夢のように登場してくる。
 「フィルコ・プレディクタ」のデザインは、ゲディーズではなく、フィルコ社のスタッフによるものであったが、それは、当時のテレビのデザインとはまったく異なるものであった。キャビネット・タイプのテレビは、つまり家具のデザインを踏襲していた。ところが、「フィルコ・プレディクタ」は、モニタ部分をブラウン管の形状そのままにデザインしたのである。スピーカーを入れた直方体の箱にダイヤルを配し、その上にブラウン管を載せたのだ。それまでの家具にみせたテレビのデザインから離れた「フィルコ・プレディクタ」は、リチャード・セクストンが指摘するように、「ハイテック」なデザインであった(『アメリカンスタイル』クロニクル刊)。「ハイテック」という用語は、いわば「インダストリアル・スタイル」のことで、工業的な形態をそのまま使ったものに対して用いられる。
フィルコ・プレディクタ
Richard Sexton, “American Style”, Chronicle, 1987より
 テレビのデザインが家具からの脱出することは、テレビが家具ではなく画像受像器であるという本質にかかわるものである。日本では、このことに気づき始めたのは、1980年代になってからだったといってよいかも知れない。この問題は、次に改めて考えてみたい。
(次回へ続く)