柏木博 NSデザイン・ミュージアム
 
第6回
ラジオの時間(3)― リスナーとラジオのデザイン
トランジスタ・ラジオの出現
 前回ふれたように、ラジオを小型化し、ポータブルなものにするには、真空管式のラジオでは限界があった。また、真空管式のラジオは電池の消耗が激しかった。それらが決定的な形で解決されるには、トランジスタの出現を待たなければならなかったのである。戦後、1950年代以降に、ラジオは真空管からトランジスタへと変化をとげ、60年代後半にはICが使われはじめていく。
 前述のシファーによると、ポケット型のトランジスタ・ラジオが始めて商品化されたのは、1954年、アメリカであった。Regency のTR-1である。日本では、東京通信工業株式会社(現・ソニー株式会社)が1955年に、「TR-55」(同年8月)と、「ポケットスーパー TR-33」(同年10月)を販売している。後者はイヤホン専用で、胸のポケットに入るほどに小型化されていた。
世界初のポケットサイズのトランジスタ・ラジオ Regency TR-1(1954)と広告
日本初のトランジスタ・ラジオ TR-55(東京通信工業株式会社 1955)
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 ラジオにプラスティックを使うことは、アメリカではすでに1930年代にはじまっており、ラジオは伝統的な家具を模したデザインから離れて自由になり、ラジオ特有のデザインが生まれていった。トランジスタ・ラジオも、もちろんプラスティック製であった。
 1955年の「ポケットスーパー TR-33」も、プラスティックの箱に円盤型ダイヤルをつけたものだが、さほど洗練されたデザインではなかった。価格は、12,600円。国家公務員の初任給が8,700円程度の時代だから、相当に高価なものである。
 果たして、アメリカではどれくらいの価格であったのか定かではないが、親が子どもに買い与えたという記録があるから、日本ほど高価なものではなかったのかも知れない。
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 アメリカにおけるトランジスタ・ラジオの出現とその普及は、ちょうど、同時代に出現してきた音楽、ロックンロールの流行と相互に関連していた。エルビス・プレスリーの「ハート・ブレイク・ホテル」がヒットチャートのトップになるのは1956年のことだ。この喧しいロックを、子どもたちが家族用のラジオで聴くことを両親は好まなかった。そこでトランジスタ・ラジオを子どもたちに与えることで、喧しさから逃れることができたのである。
ラジオとポップ・カルチャー
 1958年にソニーが出したTR-610というトランジスタ・ラジオは中心にスピーカーをレイアウトしたシンメトリックなデザインで、デザインとしては明らかに洗練されたものとなった。この頃から東芝、松下などが次々にトランジスタ・ラジオを市場に送り出し、また同時に日本で小型のトランジスタ・ラジオが大衆に浸透していった。
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 50年代から60年代にかけては、ラジオは若者のポップ・カルチャーと結びついていた。ヒットチャートが若者と結びついてポップ・カルチャーを形成していくのは、ロックが出現してきた50年代以降のことである。サイモン・フリスは『サウンドの力』(細川周平、竹田賢一訳、晶文社)の中で、50年代半ばに10代専用を目指した放送スタイルが発達したと指摘している。
 ヒットチャートは、音楽の供給システムを消費主義的なマーケットにおける他の商品と同じように流通させることに成功した。ヒット商品と同じように、音楽をヒットさせ、一定の期間が経過すると、それが商品として古い陳腐化したものであるという状況を人工的につくりだすことができたのである。
 フリスは、10代のポップ・ミュージックの聴き手は、ラジオ放送を「バックグラウンドとして利用」し、そうした「『彼らのサウンド』は大人の場所と自分たちの場所とを区別する方法になる」(前掲書)と述べている。トランジスタ・ラジオを手にすることで、若者は、親たちから離れ、あらゆる場所を自らの空間にした。しかも、自分と同じような仲間たちとは、どこにいてもネットワークで結ばれているという感覚を手にした。マクルーハンは、「いまやティーンエイジャーにとって、ラジオはプライバシーを与えてくれるものであり、それと同時に、共同市場の世界や歌と共鳴の世界の緊密な部族的結合の絆である」(邦訳『人間拡張の原理 メディアの理解』竹内書店、1967年)と述べている。空間に縛られず、自分の場を持ち、しかも、決して孤立しているとは感じない環境を実現することが、携帯型ラジオ(ネットワーク型メディア)の魅力であった。プライバシーと、孤独ではないこと、この一見矛盾するふたつのことが同時に感じられるのである。
 アメリカでは50年代後半、ティーンエイジャーは、ポケットにトランジスタ・ラジオを入れて歩くことになった。どこにいても自分の好きなヒットチャートにアクセスできる装置をいつもポケットの中に入れておけるという感覚が、特別な意味を持ったのである。どこにいても、アクセスできるという感覚は、ちょうど現在の携帯電話が生み出している感覚と似ているだろう。
 携帯電話の所有もまた、情報端末の所有ということであって、それは仲間のネットワークに加わっているという感覚を持たせる。現在の若者たちが、携帯電話を持ちたがるのは、決して自分は孤独ではないのだということを自ら確認するためなのである。
 一方、日本では、60年代、若者はトランジスタ・ラジオを持ち歩くのではなく、自宅で深夜放送を聞く装置として、個人用のラジオを持つようになった。当時の日本では、大きく分けて3種類のラジオのスタイルがあった。「卓上型ラジオ」、そして大型の家庭用「ホームラジオ」、そして「ポータブル・ラジオ」である。この中では「ホームラジオ」はしだいに姿を消しつつあった。日本の若者たちが深夜放送を聞いていたのは、「卓上型ラジオ」あるいは「ポータブル・ラジオ」であった。1960年に通産省がまとめた『日本の家庭電器』によれば、当時のラジオの普及率は77パーセントであった。また、1960年の時点で、ラジオは完全にトランジスタ化されたと記されている。
若者向けとシニア向けのデザイン
 日本のラジオのデザインに大きな変化が現れるのは1970年代のことである。もっとも典型的なデザインは、1972年に登場したソニーの「スカイセンサー5500」だ。たとえて言えば、航空機のコックピットの計器類のような印象を持っている。1976年に松下が出した「クーガー2200」も似たような印象を与える。一説によると、ソニーでは、ジャンボジェットのコックピットの写真をデザイン室に置き、その中のどの部分のイメージをラジオのデザインに使うかを議論したとさえ噂された。それほど、70年代は、日本のラジオは、コックピット風のデザインが広がったのである。これは世界的に見ても特徴的なことだといえるだろう。
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 また同時に、70年代前半から、ラジオは、カセットテープ・レコーダーと複合され、いわゆる<ラジカセ>が普及していくことになる。こうした複合型のラジオは、その後、<ラテカセ>(ラジオ、テレビ、カセットテープ・レコーダー)や<ラジカメ>(ラジオ、カメラ)といった製品を生み出していった。なかでも典型的なものは、ソニーの「ジャッカル」(1976年)で、これは<ラテカセ>であり、外観のデザインは相変わらず、航空機のコックピットである。この時代のラジオは、明らかに若い人々を対象にしていた。コックピットのデザインは、メカニズムのロマン主義ともいうべきもので、若者向けのものであったのだ。
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 しかし、その一方で、80年代以降、ラジオの別なリスナーはシニア世代であることもわかってきた。NHKの深夜放送「深夜便」は、同じ深夜放送でも、シニアに向けての放送で、多くのリスナーが存在する。実際、2000年以降の調査でも、そのことが裏付けられている。ラジオの安定したリスナーは、若者とシニアに二分されたといえるだろう。
 そして、90年代末から「深夜便」を聞くシニア世代のリスナーに向けて、新しいラジオのデザインが登場する。スイッチ類などがはっきりと認識できるデザインのラジオだ。日本ビクターの「深夜便のラジオ」などは、スイッチを大きくし、文字表示を鮮明な日本語表記にし、さらにはNHKの音声技術を活かして、放送でのしゃべりをゆっくりさせる機能まで持っている。
 テレビの普及とともに、ラジオは姿を消すと思われた時代もあったが、テレビとは別にラジオはラジオで、若者やシニアなど、ハードなリスナーを生みだし、特有なデザインを生み出し続けているのである。
(「ラジオの時間」終わり)