柏木博 NSデザイン・ミュージアム
 
第5回
ラジオの時間(2)― 小型化するラジオ
語りかけるメディア
 すでに見たように、ラジオの発明は、ワイヤーレス=無線通信(以下、無線)からはじまっている。しかし、無線によるコミュニケーションが一対一であったのに対し、無線から発達したラジオは、一対多の一方向型の、まさにブロードキャスティングとしてのコミュニケーション・メディアであった。
 一般に向けてのラジオ放送の開始は1920年、ピッツバーグのKDKA局でのハーディング大統領の選挙報告からだといわれている。以後、5年ほどで、世界中に放送局が開設された。日本では1925年(大正14年)に始まっている。
 この電波媒体は印刷メディアと異なって、軽々と国境を越えていく。それゆえに、政治宣伝に向いていることがすぐに了解されることになる。1980年代末にベルリンの壁が消滅していくことの、ひとつの、そして大きな要因となっていたのも電波媒体であったことは、知られているとおりである。
 ラジオを政治宣伝用のメディアとして最も巧みに使ったのはナチスであった。ドイツでは1933年、ナチスが政権を確立するとすぐに、ラジオが宣伝省の統制下におかれた。また、宣伝大臣のゲッベルスは大衆用ラジオを大量生産させた。その結果、ドイツでは1938年にはラジオを所有する家庭は950万戸にもなった。当時、ドイツは短波を使って24時間の海外向け放送を行っていた。アメリカやイギリス、アジアの植民地、そしてアフリカやラテンアメリカにも各国語の放送が流された。ゲッベルスは、侵略しようとする地域に対して、情報戦略を行なった。その戦略にラジオは絶対に必要なメディアであったのだ。
 ラジオは活字と異なり、感覚に衝撃を与えるメディアであったところに特徴がある。人々はラジオの語りかけを個人的に語りかけてくるメッセージのように感じた。M・マクルーハン(1911-1980)は、ラジオがわたしたちに与える効果をインプロージョン(内側に向かっての爆発)と表現している。かれは、「印刷物がことばから取り去ったすべての動作的性質が、暗闇の中で、再びラジオによって取り戻されるのである」(”Understanding Media: The Extensions of Man”,1964、邦訳『人間拡張の原理 メディアの理解』竹内書店、1967年)と、ラジオの持つ官能性について述べている。こうしたラジオの効果は、政治宣伝だけでなく、その後、ディスク・ジョッキーという手法を産みだしていく。
 水越伸は『メディアの生成:アメリカ・ラジオの動態史』(同文館出版、1993年)の中で、現在のラジオ番組のスタイルは1930年代にほぼ形成されていたと述べている。また、「音楽バラエティの司会者も人気の的であった。初期のクラシック番組のように、ただたんに曲目を紹介するのではなく、その人物がいなければショーが成り立たないほどのパフォーマンスを発揮する、いわゆるパーソナリティが登場する。後に喜劇映画でも有名になるボブ・ホープも、35年にラジオのパーソナリティとして登場している」とも述べている。こうした放送の形式は、ディスク・ジョッキー(DJ)へとつながっているといえるだろう。DJのおしゃべりは、聴衆にとってまさに個人的に語りかけてくるおしゃべりとして受容された。聴衆の名前を呼び、リクエスト曲をかけ、また聴衆から送られてきたメッセージをDJが読み上げるという放送のスタイルは、聴衆との特別な関係を形成したのである。
ラジオの外観
 1920年代、アメリカは「ラジオの時代」を迎えたが、20年代初期のアメリカのラジオの写真を見ると、ほとんど無線機そのままのような外観デザインになっている。ラジオは、無線通信の延長上に登場したのだからそのような外観になることは必然的な流れだったといえるだろう。近代になって新しく登場してきた道具や装置は、その多くが先行する道具や装置のデザインをまずは引き継ぐところからはじまっている。たとえば、1908年に登場したT型フォードは馬車のデザインを引き継いでいる。馬が消えてエンジンルームが取り付けられているのだ。自動車がそれまでの馬車とは異なったデザインを与えられるのは、1930年代に現れてくる流線型のボディーによってである。
 1920年代の無線機のようなデザインのラジオには、ヘッドホーンで受信するようになっているものや、朝顔型のスピーカーを本体の外部に取り付けたものなどがあるが、すぐにスピーカーを本体の中に組み込むかたちのものが出てくる。また、無線機のような外観ではなく、家具のようなデザインのものも現れてくる。これは、室内に置くものという発想から出ている。同じことだが、日本ではテレビが長い間、家具のような外観のデザインになっていた。
無線機型のポータブルラジオ Grebe KT-1(1921)
 

朝顔型スピーカーをつけたラジオ
NBS portable with horn speaker(1920)

家具型のラジオ
General Electric Highboy(1930)
 しかし、ラジオが小型化され、また合成樹脂によってつくられるようになると、ラジオはそれまでの道具や装置とは異なったデザインになる。ラジオがラジオとして固有のデザインを持ちはじめるのである。とりわけ1930年代には、合成樹脂を使った小型ラジオは、1920年代半ば頃にはじまるアール・デコのスタイルによる多様な外観を持つようになった。
小型化するラジオ
 声を届けてくる装置、つまり「端末装置」としてのラジオを、小さく軽量化し、ポータブルにすることへの夢は、ラジオが登場するとすぐに現れてきた。
 マイケル・ブライアン・シファーの『アメリカ的生活におけるポータブル・ラジオ』Michael Brian Schiffer (1991): THE PORTABLE RADIO IN AMERICAN LIFE, The University of Arizona Press によれば、ヒューゴ・ガーンズバックはSFの父であるだけでなく、ポータブル・ラジオの父だともいう。シファーによれば、ガーンズバックは「移動する無線のステーション」(walking wireless station)が可能であると考えていた。また、ガーンズバックの「テリムコ無線機」の場合、高周波を使うことでアンテナの長さを劇的に短くさせることができたと言う。このことは、無線機の持ち歩きを容易にした。ただ、送受信可能な範囲には、300から500フィートという限界があったという。しかしながら、携帯可能というガーンズバックが考えたラジオのイメージは、ラジオを小型化することへの動機づけになったといえるだろう。
 他方、シファーは、20世紀初頭におけるアメリカの人々は、世界中でもっとも移動のはげしい人々であったのではないかと述べている。実際、アメリカでは旅行用にさまざまな日用品が携帯化されていった。
 ラジオを小型化することの現実的要請は、第一次世界大戦時の軍事的目的から出てきた。しかし、それとは別にラジオを小型化することの夢は、奇妙なアイデアを生んでいる。1922年にアメリカで刊行された『アマチュア・ラジオのハンドブック』には、そうしたアイデアが紹介されている。マッチ箱のラジオ、指輪型のラジオといったものである。その他にも、1920年代の前半には懐中時計型ラジオや、自転車の篭に受信機を入れアンテナを張り巡らした移動型ラジオなどのアイデアが次々に出された。こうした夢は、固定された空間にしばられず、したがってプライベートな楽しみを手にしつつ、しかもどこにいても、ネットワークに結ばれているという感覚を持つことへの欲望から出てきたのだろう。
自転車ラジオ
 
懐中時計型ラジオ
 
指輪型鉱石ラジオ
 ただ、この夢が実現するには、技術的には真空管の小型化と性能の良い乾電池の開発が必要だった。1939年に小型真空管をRCAが使うことになる。これによって、個人用のポータブル・ラジオの開発がさらに刺激された。また、1941年にジェネラル・エレクトリックが2ボルトの効率の良い電池を使い始めた。ジェネラル・エレクトリックLB530は、電池のチャージャーが付いており、カーラジオと似ていた。一方、1940年代の初め頃には、カメラケース型のポータブル・ラジオが数多くつくられている。しかし、ラジオをさらに小型化するには、トランジスタの開発を待たなくてはならなかった。(次回へ続く)
RCAの小型真空管
(註記)
掲載図版とキャプションは、以下の資料に依拠しつつ、編集を加えた。
Michael Brian Schiffer (1991): THE PORTABLE RADIO IN AMERICAN LIFE, The University of Arizona Press