柏木博 NSデザイン・ミュージアム
 
第4回
ラジオの時間(1)
新しいメディアの出現とイメージの形成
 第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての、つまり両大戦間の時代は、19世紀に構想され、あるいは原型がつくられたメディアやテクノロジーが、手なずけられて日常生活の中に浸透していった時代である。通常、新しいメディアが浸透すると、わたしたちの思考や感覚や意識が急速に変容する。しかしながら、メディアとわたしたちとのこうした関係は一方的なものではない。わたしたちの思考や感覚や意識が新たなメディアの出現と、その使用方法を生みだしてもいるからである。
 両大戦間の時代には、メディアだけではなく、内燃機関や家電などのテクノロジーが日常化した。これに伴い、テクノロジーの持つ不可解さと圧倒的な力にイメージをふくらませ、テクノロジーの夢を描いたSFが次々に出現してきた。たとえばフリッツ・ラング(1890-1976)のSF映画『メトロポリス』(1926)、あるいはカレル・チャペック(1890-1938)のロボットをテーマにした戯曲『R・U・R』(1920)などが描かれたのもこの時代であり、荒唐無稽なSFとSF的なガジェットを扱ったアメリカのいわゆるパルプマガジンの隆盛もこの時代のことである。
 両大戦間に急速に広がっていった新しいメディアは、ラジオに代表される電波である。それはさらに、19世紀以来考えられていたテレヴィジョン実現への夢を連鎖的に掻(か)き立てた。また、エネルギーとしての電気が、日常生活の道具に具体化されていった時代でもある。ここでは、ラジオの成り立ちのあらましを振り返り、また、そのメディアのイメージがどのように広がったのかを見てみよう。
ラジオ前史:無線電信機からラジオへ
 新しいメディアの出現は、その装置としての洗練、そして使用法においてさまざまな夢を与えるとともに、少なからず混乱を生み出す。たとえば、パーソナルコンピュータの出現と使用法を思い起こしてみればいいかもしれない。洗練されたとはいえ、いまだにパーソナルコンピュータは完成形態とは言いがたい。また、その記録メディアやネット環境をめぐる問題や混乱が続いている。したがって、逆説的には、いまだ多くの可能性を内在させているともいえる。
  これまで日本では、電話やラジオなど多くのメディアは、装置としてもその使用法も、ある程度完成された形態になってから導入されてきた。だから、そうしたメディアが誕生していく時の混乱やさまざまな発見をわたしたちの社会はあまり体験して来なかったといえるだろう。パーソナルコンピュータの例を見てもわかるとおり、メディアの誕生と成長に立ち会ってこそ、そのメディアの意味をよく理解できるといえる。混乱し、迷いながら学習するということだ。
 振り返って、完成されてしまった状態でラジオが導入された日本では、ラジオというメディアの持つ意味をさほど深く理解しないままラジオの恩恵に浴してしまったということになる。
 ラジオの歴史は、イタリアのグリエルモ・マルコーニ(1874-1937)の無線電信機の発明に始まる。1895年、マルコーニは1700メートル離れた場所にモールス信号を打つことに成功する。この無線の発明によって、船舶と陸との通信が可能になった。1897年、マルコーニは無線電信会社を設立した。1901年には大西洋を隔てて無線電信を送ることに成功する。そして、マルコーニの発明はたちまち広がっていくことになる。もちろん、アメリカにも無線電信機を販売するマルコーニの会社が設立された。(マルコーニは1909年、ノーベル物理学賞を受賞する)
 マルコーニの発明以後、ラジオはアメリカで劇的な発展を遂げる。
 アメリカでのラジオ技術は、整理してしまえば、およそ三人の人物によって発展していくことになる。一人は発明家のリー・ド・フォレスト(1873-1961)、もう一人もやはり発明家のE・H・アームストロング(1890-1954)、そして実業家のデービッド・サーノフ(1891-1971)である。
 19世紀後半から20世紀前半は発明家が英雄の時代であった。しかも新しいコミュニケーション技術の発明とその駆使方法は、注目されていた。大学で機械工学を学んだフォレストは発明家として無線電信の改良に力を注いだ。1906年、フォレストは三極真空管The “audion”を発明する(特許は1907年)。これによって、信号ではなく直接声を送信する装置がつくられたのである。フォレストは女性歌手による歌を送信することに成功した。また、彼は1910年、メトロポリタン・オペラハウスから500ワットの送信機によって半径40キロの範囲に、世紀の大歌手エンリコ・カルーソの歌声を送信することに成功した。
フォレストの三極管The “audion”
 一方、多くのエンジニアたちに20世紀最高の発明家と評されたアームストロングは、コロンビア大学で電気工学を学び、やはり発明家の道を歩む。彼は真空管の改良をさらに重ね、電波を増幅させることで電波の受信能力を改善する。
 モールス信号ではなく、わたしたちの声を電波で送り、また受信できるようにした彼らの発明と改良は、マルコーニの電信機とはまったく異質のメディアを生み出すことになった。マルコーニの電信機は一対一のコミュニケーションの装置であった。けれども、フォレストやアームストロングの発明と改良は、一つの送信機から多数への受信を可能にする装置であった。ここにラジオが誕生することになったのである。これはマルコーニの装置が持っていたテレ(遠隔)コミュニケーションという機能からはなれて、情報をまき散らす「ブロードキャスティング」という一方的なマスメディアが出現したことを意味している。
ラジオの時代へ
 しかし、ラジオは発明されるだけではなく、放送が産業とならなければ、資本主義的市場の支配する社会では一般化することはなかった。ロシアからの移民であったサーノフは少年時代にアメリカ・マルコーニ社の雑用係りとして仕事をしていた。そこで彼は通信技術を身につけたといわれる。
 1912年、タイタニック号が氷山にぶつかりSOSを発信。その受信によって乗船客が助かるという有名な事件が起きる。この受信は今日的ないい方をすれば、ハッキングである。もともとハッキングには悪い意味はなかった。アメリカではコンピュータ以前のはやい時代から、ハッキングという行為が知られていたのだ。
 タイタニック事件によって、無線通信の意味がクローズアップされ、また、アメリカでは船に無線機をつけることが義務づけられた。サーノフはタイタニック号からの電信を受信し続けたということで評判となる。そして、彼はアメリカ・マルコーニ社の技術開発責任者となった。
 サーノフはこの頃からラジオを産業化することを考えはじめる。第一次大戦は通信技術を大きく進展させた。1919年、RCA(ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ)が設立されると、サーノフはアメリカ・マルコーニ社を吸収させてマネージャーになる。また、彼はアームストロングの発明に注目し、それを買いとる。そして、1920年代、アメリカは「ラジオの時代」をむかえることになる。音楽、政治、広告、すべてがラジオを使うことになったのである。
 アメリカにおいて広告が決定的な力を持つようになるのは1920年代のことである。実際、アメリカでは1920年代を「広告の時代」とも呼んでいる。アメリカは世界中でもっともはやく消費社会をつくり出した。それも1920年代のことである。フレデリック・L・アレンが、泡沫経済の中で広がった20年代を『オンリー・イエスタデー』(Only Yesterday: An Informal History of the 1920's Harper & Row 1931)のこととして消費社会を振り返り語っていることからもわかるように、この時代は大戦前のアメリカにとって、もっとも華やいだ時代であった。こうした消費社会の出現とブロードキャスティングとしてのラジオの普及は無縁ではない。
ヒューゴ・ガーンズバックによる通信販売
 ラジオというメディアの歴史は、RCAに代表されるラジオ産業のメインストリームだけで成り立っているわけではもちろんない。実際にはアマチュア無線の歴史がそれを支えていたのである。
 フォレストが三極真空管を発明した1年前の1905年11月、『サイエンティフィック・アメリカン』誌に「ワイヤレス・テレグラム」(商品名テリムコ Telimco)の広告が掲載された。
 「テリムコ」を販売したのは「エレクトロ・インポーティング」という名前の会社である。この会社の経営者は、1904年にルクセンブルグからやってきたばかりの移民のヒューゴ・ガーンズバック(1884-1967)であった。この名前を目にしてSFファンであれば驚くにちがいない。SF雑誌をつくったことで知られるヒューゴ・ガーンズバック、その人である。1980年代にサイバー・パンクSFの代表的作家として知られるようになるウイリアム・ギブスン(1948-)の短編に、『ガーンズバック連続体』(1981)という1930年代の誇大妄想的なアメリカのデザインを題材にした作品がある。そのタイトルに使われているガーンズバックが「電信機」の通信販売の経営者だったのである。
ヒューゴ・ガーンズバック(1884-1967)
 フォレストが三極真空管を発明し、ガーンズバックが「テリムコ」の通信販売の広告を繰り返し出した1906年、最終的にはラジオ産業のメインストリームにならなかったが、その歴史に少なからぬ影響を与えることになる「鉱石検波器」がH・H・ダンウッディーによって発明された。これは安価で無線技術を利用しようとする若者たちに決定的な役割を担うことになったのである。ガーンズバックの会社は「鉱石検波器」も目録に入れてカタログ販売をするようになる。1908年、ガーンズバックはそれまでの通信販売カタログから『モダン・エレクトリックス』という雑誌を刊行することになった。ガーンズバックの無線機器の商品は、先にふれたように現代的にいえばハッカーたちに市場を広げたのである。メインストリームではない鉱石検波器のようなマージナル(周縁的)な装置の文化的な意味こそが、いわば良い意味でのハッカー的文化の重要性を持っているといえるだろう。
アマチュア無線家たちの放送
 スーザン・J・ダグラスは「アマチュア通信家とアメリカの放送;ラジオの未来の形」(『明日のイメージ』MITプレス 1986、所収)の中で、『ニューヨーク・タイムズ』は1912年までに全米で122の無線クラブが存在すると概算していたと述べている。「こうしたほとんどのクラブのミーティングは、前もって波長をアレンジしておき、『空中』で行われた」というのだ。また、「こうしたミーティングの間、アマチュア無線家たちは通常、技術的問題とその処置についてお互いに共有しあい、伝達技術に関してお互いに学習した」(ダグラス)のだという。無線クラブが不可視の電波のネット(当時はチェーンと呼ばれていた)で全米を組織し、コミュニケーションを交わし、技術的問題を共有していたのである。こうしたコミュニケーションのあり方は、現在のインターネットを使ったコミュニケーションとなんと似ていることだろう。
 この頃からアマチュア無線家たちはラジオ技術を先取りしていただけでなく、放送(ブロードキャスティング)の出現を予測していた。ダグラスによれば、1910年から20年にかけて、アマチュアのステーションが音楽放送やおしゃべり、そして広告も流していたというのである。そして、1920年代にはアマチュアのステーションが商業ステーションになっていたという。したがって、1920年代末に成長するRCAに代表されるラジオ産業も、こうしたアマチュアの存在に依存しているところが少なくなかったのである。
 デザインについていうなら、アマチュア無線家たちが無線を使って放送をしはじめた時代においては、まだラジオは自らのデザインを持つには至っていなかった。その後、本格的なラジオが出現したときも、当初はそれを、どのようなデザインにすればいいのか、しばし考えあぐねていた状態だった。というのも、歴史的にそれまで存在していなかった道具や装置にどのような形を与えたらいいのか迷ったからである。(次回へ続く)